戯曲におけるストーリーとキャラクターの関係について

「映画「スタンド バイ ミー」を通して考える

 


物語を全体としてとらえると「状況設定」「葛藤」「解決」と区分できる。
「状況設定」の場では舞台設定を伝え、何についての物語かを伝え、どんな人物が繰り広げる物語かが伝えられる。
「脚本はストーリーを前に進めるか、もしくはキャラクターを描写するか、いずれかの要素が常に描かれ続けていなければならない」と は私の映画学校時代の講師の言葉だが、「状況設定」の中では「ストーリーとキャラクターとを同時に描かなければならないのではないだろうか」そんな思いが生まれてきた。というのは映画「スタンド バイ ミー」ではその両者が同時に絡み合って提示されているような気がしてならなかったのである。
「状況設定」の中でのキャラクターとストーリーの関係を「スタンド バイ ミー」の各場面を見て考えていきたい。

例1 死体情報がもたらされる

これはこの映画の中では「発端」と呼べるストーリー上の重要なポイント(プロットポイント1)であるがこの場面での「ストーリー」 と「キャラクター」の関係はどうなっているか。
バーンは「死体を見たくないか?」と発言することがストーリーを前に進めているが、本作の中で脚本家はバーンにその発言をなかなか させていない。
バーンは小屋に着くなり重要な出来事を伝えようとするのだが「走ってきて息があがっているから喋れない」という設定が設けられてい る。バーンが太っていて運動が苦手であるという「キャラクターの描写」だ。次にこれを3人は茶化す。バーンがいつもこのようにから かわれていることが示されているわけだ。こうして「キャラクターを提示」は続く。バーンは息を整える。3人も聞こうと身を乗り出す 。バーンは喋ろうとするが3人がまたすぐに茶化すので喋れない。うなだれるバーン。半分諦めたように「死体を見たくないか?」と呟 く。3人は静まり返ってバーンの言葉に耳をかたむける…
このように重要なストーリーの展開を観客に示す際にキャラクターの人間性、関係性が同時に示されている。3人がバーンを茶化すとい うのは「キャラクターの描写」である。しかし「死体を見たくないか?」といわれて静まり返ることで「ストーリー」もよりはっきりと したのである。
ここにシリアスな情報を4人のうちの一番道化的な人物によってもたらした脚本家のテクニックが見て取れる。「死体情報」というスト ーリー情報だけなら別にクリスでもテディでもまたはゴーディーでもいいわけだ。しかし脚本家はこの重要な情報の伝達者としてバーン を選んだ。それはこの情報をもたらすときに人物描写・人間関係を同時に描くのに最も適任だったからであろう。
次に脚本家はバーンが「どうして死体情報を得たか」ということについて描き出す。
貯金箱を埋めた場所の地図をなくしたバーンは三ヶ月間も軒下を掘り返している。スコップを持ったバーンが懸命に穴を掘っている。周 りはバーンが掘ったであろう穴が無数にある。その時兄達の内緒話をバーンが耳にする…
重要なストーリー上の情報の中に「バーンの滑稽さ」を同時に描いている。それだけではない。兄たちの交わす秘密話の中にはいくつも の伏線がはりめぐらされている。まず二人が死体情報を警察に知らせられないのは「車を盗んだ事がばれる」ということ。これはこの二 人が悪事を働くような人物であるという情報である。そして片方が「匿名で通報したらどうか」と言う。もう片方が「馬鹿か。逆探知さ れるぜ。TVのハイウェイパトロールで見たもの」と言う。これは二人が悪の中でもいかにも小者であるという情報であるがまた「匿名 で通報する」というのは主人公達が最終的に選ぶ手段であることだ。伏線。会話は続く。「エースが車を出してくれなかったのがそもそ もの間違いだ」これはこの物語でまだ登場していない敵対者に関する情報であり、二人とその人物の力関係もほのかに示している。時間 にして20秒弱。その中にこれだけの情報がこともなげに詰め込まれている。そしてそれらはすべて「バーンがどうして死体情報をえた か」という中で同時に示されているのだ。次はその情報を受けた3人のリアクションである。まずはゴーディーが「何故その少年はそんなところに出かけたんだろう」と疑問を呈する。これは観客があとになって(例えば死体見つ かったときなどに)こういう疑問をもってしまっては映画から気がそれてしまうために先にその疑問に対して答えておく、という脚本家 のテクニックであるが脚本家はこの観客への情報の裏づけをするときも「キャラクターの提示」を忘れない。「そんなところに一人でい くのはおかしい」と考えるのは物事をよく考えるゴーディーの知性を表現できるのだ。そしてこの疑問に関して答えを持っているのはテ ディである。「やつは近道をしようとしたんだ。そこにはよく父ちゃんと釣りに行ったから知ってるよ」これで観客の「なんで少年はそ んなところに行ったのか」という疑問の芽は刈り取られた。そしてこのテディの答えもやはり「キャラクターの提示」なのである。テデ ィの抱えている問題は「父からの暴力」である。そしてこの問題が単純でないのはテディはそれでも父を愛しているということである。 父は戦争の後遺症で精神を患っており、優しさと狂気を併せ持っている。テディはその狭間で苦しみ、それでも父を愛している。「父ち ゃんとよく釣りに行った」という情報も不必要な情報ではないのである。そして「暴力を振るわれてなおも父を愛している」というテデ ィの人物設定は「父から嫌われているのではないか」という主人公ゴーディーの問題と相対している。
テディとクリスは「死体を見つけて町の英雄になろう」と盛り上がる。しかし一日で行ける距離ではない。そんなところに行ったことが 分かったら親に殴られるとバーンがしぶる。これにはゴーディーがすぐさまアリバイ工作をして、その不安を取り除いてやる。「さすが 」とクリスはゴーディーを賞賛する。これは「ゴーディーの知性」と「クリスがゴーディーを認めている」という「キャラクターの提示」 に他ならない。しかしバーンはなおもしぶる。「でも盗み聞きをしたのがばれたら殴られる」。これにクリスが答えていうに「俺はどっ ちみち殴られる。やろう!」という。ここで「どっちみち殴られる」と、クリスはさらっと言っているがこれはクリスの家庭環境の劣悪 さを示す情報だ。
みんなは「やろう!」と盛り上がる。しかしバーンはなおも渋る。結局クリスとテディがバーンを羽交い絞めにして頭をグリグリするの でバーンはたまらなく「分かった。行くよ」と言う。これらも「弱いバーン」「そのバーンとテディ達の関係性」という「キャラクター の提示」なのだ。

以上はバーンが「死体を見たくないか」と言うために小屋にやってきてから「死体を見に行く」と全員で一致するまでのやりとりである

バーンが登場するのは物語が始まって3分22秒のところ。全員で「やろう!」となったのは7分47秒。つまり4分23秒の間にこれ だけの情報が網羅されていた。「死体情報」というストーリー上の重要な情報を観客に伝えるときにどれだけ巧みにキャラクターを示しているか、またキャラクターを示しつつ、「死体情報」の情報の裏づけをはっきりさせ、観客が後に抱くかも知れないいらぬ疑問の芽を 刈り取る。ものの見事に「ストーリー」と「キャラクター」は絡み合って表現されていた。

「ストーリー」と「キャラクター」は切り離すことの出来ない車の両輪なのである。