上手いセリフを書くためには

黒澤映画「どん底」から考えてみる


筋なし主人公なし
これは岩波文庫「どん底」の解説の項に書かれている言葉である。黒澤映画では群像劇という言葉を宣伝文句に使っている。たしかにこの物語は一見筋らしい筋は見当たらないし、主人公は誰かと問われれば、「全員」と答えるのがもっともな回答ではないかと思うほどすべての登場人物が深く掘り出され、そして交わりあっている。しかし大筋で捉えると物語の展開の際立つところに「捨吉による大家殺し」という事件があり、そのいきさつになる「捨吉とおかよの駆け落ちしようとする」という目的がこの物語を引っ張る要素になっている。そう考えると主人公は捨吉と言える。現にその捨吉を三船敏郎が演じているところをみても捨吉がこの物語を「引っ張っていく」要素を持たされていることが分かる。つまり「大家殺し」がプロットポイントになっているわけだが、この映画がやはり「筋なし主人公なし」と感じさせるのはこの「大家殺し」以降もう捨吉も駆け落ち相手のおかよも登場しないという点にある。普通の物語ならその後ふたりがどうなったかを追いかけていく。しかし「どん底」ではその後のふたりは、残された人物たちの会話によってのみ語られるだけなのである。そして映画は残された人物たちをさらに深く描いていく・・・
今はこの物語がどう展開していたかを分析しようとしているわけではない。筋なしといわれる物語にも核になる事件はあったということを言いたかった。つまり「捨吉とおかよの駆け落ち」が一つの目的として描かれるならそれに対する障害も描かれているはずだ。それが登場人物としては大家とお杉のふたりになる。「目的と障害」。つまり状況設定である。状況設定をするためにはいくつか観客に説明しておかなくてはならないことが出てくる。芝居の中で最も嫌われる「説明台詞」のおでましだ。逆の言い方をすると脚本家の力量をこれほど残酷に写し出すものはない。原作者であるゴーリキー、そして黒澤明、小国英雄という日本映画界の巨人たちが説明台詞をどう処理していたかみてみよう。

舞台となる木賃宿の隣には大家の家がある。
大家には妻があり、二人揃って宿の連中から毛嫌いされている。
ただし宿の連中は他に行き先がなく、大家の方も連中から宿代をもらって生計を立てているので両者は仲こそ悪いが「持ちつ持たれつ」の関係である。
中でも泥棒の捨吉は商売の上がり品を大家に横流ししているだけに金にはそれほど困っている様子もないがやはり彼もここを簡単に出られるわけではないらしい。その捨吉と大家の妻、お杉は関係を持っていたらしいが捨吉は今となってはお杉より、お杉の妹のおかよに気があるらしい。お杉もそのことには薄っすらと気がついている様子である。この事は町内の噂話にもなっているからだ。大家も嗅ぎつけている。かといってお杉も大家もことさら問いただすほどの証拠を持っているわけではないので今はお互い様子を探り合っている。
肝心のおかよは捨吉に心を許していない。

本作の一幕「状況設定」は、要約するとこういうことだろうか。これが映画を観ていて「説明された」ような気がまったくしないのは何故だろう。説明のオンパレードになりがちな時間なのに、観客として「本作を楽しむための必要な情報量を詰め込まれた」という印象をまったく受けないのだ。人物同士のやりとりをただ見ているだけで必要な情報量が知らず知らずのうちに観客の中に浸透してくるように描かれている。どんなテクニックが隠されているのか、振り返ってみたい。

秘密その一、「説明は遠いところから」

まず大家の情報を観客に与える時、最初から大家を登場させていない。
辰が隣家を見て「おい。ところで大家もおかみも今日はさっぱり面見せねえな。へへ。くたばったんならありがてえが」
これが最初の情報である。短い。相手の役者もその台詞を聞いて顔をにやけさせるだけである。「まったくだぜ。ところで聞いたか?捨吉とお杉の話」などとすぐに説明の本題に入ったりもしない。一度病身のあさの描写に移っている。そして役者がそのあさを外に連れ出したところで、隣家から六兵衛が登場する。
六兵衛は捨吉の寝床の方を気にしている素振りを見せるが、すぐにお杉と捨吉のことを尋ねたりはしない。「あいかわらずガリガリやってるね」などと挨拶をしている。そして六兵衛が開けっ放しにしている戸を留吉がいかにも迷惑そうにピシャンと閉めて空気が変わったところで「おい。ウチのカカア来なかったか?」と尋ねさせている。留吉はその質問に答えない。「知らねえよ」の一言。
そこで六兵衛は留吉が場所をとりすぎていることを注意し、宿賃の値上げをしようとする。これでこの人物が「噂の」大家「らしい」ことが示された。まだ「大家」という言葉は使っていないのだ。次に戻ってきた役者とこの「大家らしい」人物とのやりとりでこの人物が金銭にめざといこと、そして役者がこの人物から借金をしていることが示される。役者はこの守銭奴に嫌気をさし寝床に籠ってしまう。留吉もこれみよがしに戸を開けて出て行く。「おれが来るとみんな逃げ出しやがる」と呟く男。それに対して喜三郎の台詞。「鬼でも逃げ出さあ」これでこの人物が嫌われ者であることが決定づけられた。それに対しての男の台詞。「ふふ。ご挨拶だな。だが俺はお前たちを子供だと思っている。大家といえば親も同然」これでこの男が「大家」であることも示された。つまり観客にとって「こいつが噂の大家だな」と一度想像させておいてそのあとで「大家」であることを決定させているのである。最初から「あ、大家さん」などと誰かに挨拶させたりしていない。このあたりに説明台詞の処理の仕方の秘密があるのかも知れない。
そして大家は再び問う。「おい、ところで捨吉はいるかい?」この老獪な大家は最初は「カカアは来なかったか?」と聞いていた。それが今度は「捨吉はいるかい?」と尋ねている。大家は「カカア」を探しにきたのか、「捨吉」を探しに来たのか・・・次のやりとりで大家の目的が鮮明になってくる。
六兵衛「捨吉。おい。捨吉」
捨吉の声「誰だ?」
六兵衛「俺だ。俺だよ」
捨吉の声「何のようだ?」
六兵衛「開けてもいいかな?」
喜三郎「開けてびっくり玉手箱か。ふふふ」
喜三郎が大家をからかったこの台詞。これで大家が探しに来たのは「カカア」
で、その「カカア」が「捨吉」のところにいるのではないかと疑っている大家
が示されたのである。しかしこれもまだ匂わせる程度の材料を並べただけにす
ぎない。ただ襖がなかなか開かないことに慌てた大家が半ば強引に戸をあけ
ようとする仕草にこの男のやんごとなき心中が察せられるように描かれている。
さて、次に捨吉の登場である。この重要人物を登場させるときにどういう工夫
がしてあるだろうか。
六兵衛「(戸を叩き)開けろ!」
捨吉出てくる。
捨吉 「うるせえな。何でえ」
六兵衛「い、いやあ、何も・・・」
六兵衛、捨吉の寝床を探るように観る。
捨吉、六兵衛を引っ張る。
六兵衛「いや、俺はな・・・何も」
捨吉 「銭は持ってきたのか?」
六兵衛「銭?何のこった」
捨吉 「三両。ゆんべの品物の代よ」
六兵衛「ゆんべの品物?」
捨吉 「とぼけるな。蒔絵の手箱に入った珊瑚玉のかんざし。鼈甲の櫛、笄。ゆんべ五両でてめえに売ったじゃねえか。二両は確かにもらった。あとの三両出しな」
六兵衛「・・・」
捨吉 「俺はどうせ泥棒よ。それでてめえは系図買いよ」

まず捨吉は「銭は持ってきたのか?」と尋ねている。その額は「三両」という大金だ。これまで喜三郎と辰が「五文くんな」「おいら二文しかねえ」と言い合っていたこの木賃宿の金銭感覚からするとおよそ飛びぬけた額だ。それは「ゆんべの品物の代」らしい。とぼける大家に捨吉は品物の名を列挙し、「ゆんべ五両でてめえに売った」と言う。「二両はもらった。あとの三両だしな」。口ごもる大家への捨吉の台詞。「俺はどうせ泥棒よ。それでてめえは系図買いよ」。
「捨吉は泥棒」ということが提示された。しかしここでも最初から「泥棒」という単語が出てきたわけではない。「隣の大家さんが泥棒の寝床にいかなるご用時で?」などと言わせてはいないのだ。やはり「説明は遠いところから」だ。上のやりとりを聞いた時の観客の連想と合わせて考えてみよう。( )内が僕の想像する観客の連想である。

「銭は持ってきたのか?」・・・(あれ?金を取り立てる側の大家に金の催促をしているぞ)
「銭?何のこった」
「三両。ゆんべの品物の代よ」・・・(三両!えらい大金だ)
「ゆんべの品物?」
「とぼけるな。蒔絵の手箱に入った珊瑚玉のかんざし、鼈甲の櫛、笄。」
・・・(なんか宝物みたいだな)
「ゆんべ五両でてめえに売ったじゃねえか。二両は確かにもらった。あとの三
両だしな」        ・・・(ああ、その代金ってことか)
「俺はどうせ泥棒よ。それでてめえは系図買いよ」
・・・(あ、こいつ泥棒なのか、系図買いってのはよく分からんが、まあ同じ穴のムジナってとこか)

こう書いてみると、上記の台詞はまず観客に疑問を持たせるところからスター
としていることが分かる。そして疑問を発展させておいてから最後にはきちん
と答えを提示している。
それは「大家が何をしにやって来たのか」ということについても同じ手法がと
られている。
上記のやりとりのあとに捨吉はすぐに大家を追い出す。そして「あいつ、何し
にきやがったんだ?」と言う。それに対して喜三郎が「決まってるじゃねえか。
カカアを探しによ」とちゃんと答えているのだ。しかしそれは言葉として最初
から説明したのではなくそれまでの大家を見ていて観客に十分連想させておい
てから最後に答えを提示しているというわけだ。「開けてびっくり玉手箱」と張
った伏線がここで拾われたわけである。
「説明は遠いところから」というのは言い方を変えれば「観客に意外なところ
から提示して興味をひいていく」ということになるのだろうか。
そしてある段階までいったら「答え」をみせていることにも注目しておきたい。

秘密その二、対話はNOの応酬

さて、この「どん底」の台詞の一つ一つが重要な情報を握っており、一つも落
とすことが出来ないのでハコ書きを作る作業で苦労したと言うことは先に触れ
た。台詞の一つ一つが重要な情報を握っているとなると莫大な量の情報を観客
は脳内で処理していることになるのだが、観ていて疲れるということはない。
秘密その一では情報開示に「意外性」を持たせることで、観客の想像力を促し
ていることにその仕掛けがあると言ったが、今度はその一つ一つの台詞の言い
回しに注目してみようと思う。よく昔の脚本化がその修行時代に、師から脚本
に朱を入れられ台詞が一つ残らず消された、というような話を目にするが、い
い台詞、駄目な台詞の線引きがこの「どん底」から見つかるかもしれない。
「どん底」の内容に沿って見ていきたい。捨吉が登場して大家を追い返し、そ
の後に交わされる会話である。
捨吉 「あ~あ因業じじい。寝てるとこ、叩き起こしやがって。いい夢見てたのによ。釣りをしてたのさ。するってえとかかったんだ。どえれえ鯛がよ。とても夢でなきゃお目にかかれねえや。それをおめえ、もう一息ってとこをよ」
喜三郎「そりゃ鯛じゃなかろう。お杉だろうぜ」
役者 「お杉ならとっくに釣りあげてら」
捨吉 「うるせえや。てめえらもあのアマも消えてなくなれ」

これほど端的に捨吉とお杉の関係を表す会話があるだろうか。特に後半の三行
に注目だ。新情報がビシバシ提示されている。しかしこれっぽっちも説明され
た気がしない。どうしてだろう。
まず喜三郎の台詞も、その後の役者の台詞も、またそれに対する捨吉の台詞も
相手の言い分を否定しているのが分かる。否定して「なぜなら」とその理由を
述べることで新たな情報を提示しているのだ。他にも探してみよう。
捨吉がおかよへの気持ちを述べたところも「否定+α」といえるのではないだ
ろうか。

捨吉 「おれはあいつを見てると可愛そうでほっとけねえんだ」
辰  「そいつはなお可愛そうだ」

捨吉と嘉平のやりとりもまさにそれである。

嘉平 「♪帰命頂礼 地蔵・・・」
捨吉 「じじい。歌やめろ」
嘉平 「♪こ~れ~」
捨吉 「やめねえかこの野郎!」
嘉平 「お嫌いかな?」
捨吉 「下手な歌は好かねえよ」

殿様とおせんの口げんかですらも「否定+α」で展開する。

殿様 「ふん!おめえらは知るめえが昔の俺の暮らしは豪勢なもんだったぜ、おう。旗本といやあなあ、いくら貧乏でも天下の御直参だ。朝起きるから夜寝るまで懐手のままよ。風呂に入ったって洗いもしなきゃ拭きもしねえ。みんな腰元がやってくれたもんさ」
おせん「(突然顔を出して)嘘つけ!」
殿様 「何だと、この八問夜鷹め!」
おせん「その夜鷹から三文、五文とせびるのは一体誰だい?」

まだまだある。やがて登場したお杉の場面。

お杉 「(辰に)二度とこの敷居をまたがせんじゃないよ。分かったね」
辰  「おいら、門番じゃねえ」
お杉 「ふん、お客面が聞いて呆れるよ。お情けで置いてるんだからね。いくら貸してあったっけねえ」
辰  「勘定なんかしてみねえ」
お杉 「今勘定したって構わないよ」

否定から入るとは相手の言ったことに対して自分は別の言い分を持っていると
いうことである。その言い分こそがその人物の行動線である。しかしさらに相
手も否定を返してくるのでそこに火花が起きる。Aの言い分はBによって否定
されることでAはさらに別の答えを導き出さなくてはならなくなる。かといっ
てAは自分の行動線を諦めるわけではなく、最初とは違う方向で探ろうとする。
その新たな方向の中に観客に提示しなければならない「新情報」が組み込まれ
ている。
例えばお杉と辰のやりとりなら「おいら門番じゃねえ」と否定されたあとのお
杉の台詞には「たしかにあんたは門番じゃないが」という( )書きが入る。
一度相手の否定を受けて入れているのである。しかしさらにそれを否定で「お
客面が聞いて呆れる」と返しているのだ。(なぜなら)「いくら貸してあったっ
けねえ」というわけだ。お杉はさらに自分の言い分を打ち返すことで、観客に
は二人の金銭関係という新情報を提示しているのだ。
情報をただ説明するのではなく否定の応酬の中に一つずつ加えていく。否定の
応酬とは火花のおこる場所、空気の変わり目、つまり役者の芝居のしどころに
なっている。こうして書かれた台詞こそ「対話」と呼ばれるものではないか。
一行も削れない台詞とは、新情報が入っている台詞のことである。そしてその
台詞を呼び込むのは言い分の「否定」から入っているというわけだ。
最後に一つ特別感心した「NOの応酬」をメモしておきたい。

喜三郎「おい、五文くんない」
辰  「おいら二文しかねえ」

こんな台詞が書けるようになりたいものである。

さて、他に秘密はないだろうか。ここまで振り返りながら一つ気になることが出てきた。それは人物の登退場の多さである。もしかしたらこの中に別のテクニックが隠されているかも知れない。まずは大家の情報がもたらされる12分05秒の時点から状況設定が完成する37分57秒までの登退場をすべて書き出してみよう。

1  辰、退場
2  六兵衛登場
3  役者とあさ退場
4  役者登場
5  留吉退場
6  捨吉登場
7  六兵衛退場
8  留吉登場
9  喜三郎、役者退場
10 おかよ、嘉平登場
11 辰登場
12 おかよ退場
13 留吉退場
14 殿様登場
15 おせん登場
16 捨吉、殿様退場
17 卯之助登場
18 お杉登場
19 卯之助退場
20 お杉退場
21 おせん退場
22 島造登場
23 嘉平退場
24 嘉平、あさ登場
25 六兵衛登場
26 お杉、おかよ登場

なんと26回。約25分のシーンの中でこれだけもの登退場が行われていた。そして登場を黒、退場を赤で示してみるとよく分かるが、だいたい登場と退場が繰り返されている。登場とは人数が増えること、退場とは減ることであるからそれが繰り返されていたということは人数が一定に保たれていたということであろうか。上の登退場表に「その時舞台に誰がいるか」を付随してかんがえてみよう。
1  辰、退場     喜、役者、留、あさ
2  六兵衛登場    喜、役者、留、あさ、六
3  役者とあさ退場  喜、留、六
4  役者登場     喜、留、六、役
5  留吉退場     喜、六、役
6  捨吉登場     喜、六、役、捨
7  六兵衛退場    喜、役、捨
8  留吉登場     喜、役、捨、留
9  喜三郎、役者退場 捨、留
10 おかよ、嘉平登場 捨、留、かよ、嘉
11 辰登場      捨、留、かよ、嘉、辰
12 おかよ退場    捨、留、嘉、辰
13 留吉退場     捨、嘉、辰
14 殿様登場     捨、嘉、辰、殿
15 おせん登場    捨、嘉、辰、殿、せん
16 捨吉、殿様退場  嘉、辰、せん
17 卯之助登場    嘉、辰、せん、卵
18 お杉登場     嘉、辰、せん、卵、杉
19 卯之助退場    嘉、辰、せん、杉
20 お杉退場     嘉、辰、せん、卵
21 おせん退場    嘉、辰
22 島造登場     嘉、辰、島
23 嘉平退場     辰、島
24 嘉平、あさ登場  辰、島、嘉、あさ
25 六兵衛登場    辰、島、嘉、あさ、六
26 お杉、おかよ登場 辰、島、嘉、あさ、六、杉、かよ

以上のようになる。最後こそ7人まで増えるが、だいたい2人~5人の間で推移している。この物語の登場人物は全部で17人。それがこの25分間の中ではほとんど揃わないようになっている。何のためか。17人のうち、2人~5人でシーンをつないでいくということにどのような狙いがあるのか。
「今舞台上に誰がいるか」ということを決定したのは言うまでもなく劇作家である。ということは劇作家はその場面で「誰と誰を残し、何を話させるか」を決めていたことになる。というわけで上の26回の登退場の中で何が語られていたか、逐一メモしてみよう。
1  辰、退場     喜、役者、留、あさ
-あさの病気について① 役者について①
2  六兵衛登場    喜、役者、留、あさ、六
-六兵衛について①―
3  役者とあさ退場  喜、留、六
-六兵衛の懸念① 六兵衛について②-
4  役者登場     喜、留、六、役
-六兵衛について③―
5  留吉退場     喜、六、役
-六兵衛について④、六兵衛の懸念②ー
6  捨吉登場     喜、六、役、捨
-六兵衛の懸念③、六兵衛について⑤、捨吉について①―
7  六兵衛退場    喜、役、捨
―捨吉の潜在的希望について①、捨吉とお杉の関係①-
8  留吉登場     喜、役、捨、留
-おかよについて①、捨吉について②、留について①―
9  喜三郎、役者退場 捨、留
―あさの病気について②、留について②
10 おかよ、嘉平登場 捨、留、かよ、嘉
―おかよについて②、嘉平について①
11 辰登場      捨、留、かよ、嘉、辰
-おかよについて③、捨吉について③-
※ただし辰が登場したということは関係していないが
12 おかよ退場    捨、留、嘉、辰
―おかよについて④、捨吉の潜在的な希望について②、お杉について①
13 留吉退場     捨、嘉、辰
-嘉平について②-
14 殿様登場     捨、嘉、辰、殿
-殿様について①、嘉平について③-
15 おせん登場    捨、嘉、辰、殿、せん
-殿様について②、嘉平について④-
16 捨吉、殿様退場  嘉、辰、せん
※ここは次の17と入れ替わりの登退場のため省略
17 卯之助登場    嘉、辰、せん、
―卯之助について①-
18 お杉登場     嘉、辰、せん、卵、杉
-お杉について②-
19 卯之助退場    嘉、辰、せん、杉
-お杉について③、お杉と捨吉の関係②、お杉と捨吉の関係③-
20 お杉退場     嘉、辰、せん、卵
-お杉について④、お杉と捨吉の関係④、おせんについて①
21 おせん退場    嘉、辰
※取り立てた情報はなし
22 島造登場     嘉、辰、島
-嘉平について⑤、島造について①-
23 嘉平退場     辰、島
-お杉と捨吉の関係⑤、島造について②、島造とお滝の関係①
24 嘉平、あさ登場  辰、島、嘉、あさ
-あさの病気について③-
25 六兵衛登場    辰、島、嘉、あさ、六
※ここも26とほぼ重なりなので省略
26 お杉、おかよ登場 辰、島、嘉、あさ、六、杉、かよ
-お杉と捨吉の関係⑥、あさの病気について④、嘉平について⑥

一つの事柄について何回に分けて展開していたか・・
(以下の区分けは厳密なものではなくあくまで目安である)
あさの病気について   ・・・4回
役者について      ・・・1回
六兵衛について     ・・・5回
六兵衛の懸念      ・・・3回
捨吉について      ・・・3回
捨吉の潜在的希望について・・・2回
捨吉とお杉の関係    ・・・6回
おかよについて     ・・・4回
留について       ・・・2回
嘉平について      ・・・6回
お杉について      ・・・4回
殿様について      ・・・2回
卯之助について     ・・・1回
おせんについて     ・・・1回
島造について      ・・・2回
島造とお滝の関係    ・・・1回

かなり細かく分けて情報を提示している。この中でも「状況設定」の要となる「捨吉とお杉の関係(6回)」がどのように小分けして提示されていたかを考えてみたい。そこに登退場をどう絡めてきているか・・・

○第一情報 「捨吉とお杉が関係を持っていることが示される。ただし捨吉はそれをよしとしていない」
情報提供者・・・捨吉、喜三郎、役者

喜三郎「それからお杉を女房にしてここの家主におさまるのさ」
捨吉 「ふん。ありがてえ幸せだな。そこでてめえ達、こっちの人のいいのを幸いに、おいらの身柄まで飲んじまおうって了見だろ」
喜三郎「へへへ」
捨吉 「あ~あ因業じじい。寝てるとこ、叩き起こしやがって。いい夢見てたのによ。釣りをしてたのさ。するってえとかかったんだ。どえれえ鯛がよ。とても夢でなきゃお目にかかれねえや。それをおめえ、もう一息ってとこをよ」
喜三郎「そりゃ鯛じゃなかろう。お杉だろうぜ」
役者 「お杉ならとっくに釣りあげてら」
捨吉 「うるせえや。てめえらもあのアマも消えてなくなれ」

○第二情報 「お杉の方が捨吉に惚れている」
情報提供者・・・お杉、辰

辰  「留守だぜあいつは」
お杉 「(動揺して)誰がさ?」
辰  「捨吉よ」
お杉 「誰がそんなこと聞いたい?」
辰  「だってあいつの部屋見てるからよ」
お杉 「あたしゃ部屋の掃除が出来てるかどうか、目を配ってんのさ」

○第三情報 「お杉は捨吉とおかよの関係を疑っている」
情報提供者・・・お杉、辰

お杉 「ところで、妹は来なかったかい?」
辰  「そのじいさん、連れてきたっけが」
お杉 「で、あの人そん時、ここにいたのかい?」
辰  「捨吉かい?いたよ・・・でも、おかよ坊とは口もきかなかったぜ」
お杉 「そんな事聞いてやしないよ!いいかい。すぐに掃除をするんだよ。分かったね」

○第四情報 「捨吉はお杉からおかよに乗り換えた」
情報提供者・・・辰、おせん

辰  「どうしてお杉のアマ、歯入れ家のヒヨッコを目の敵にするんだろう」
おせん「捨さんがおかみさんを袖にしてね、おかよちゃんに乗り換えたなんて言いふらすからさ」
辰  「へへ。まんざら嘘でもねえが、ふん」

○第五情報 「捨吉とお杉の関係は周知の事柄」
情報提供者・・・辰、島造

島造 「どうもしねえ?ふん。いろいろ聞き込んだことがあるんだがな」
辰  「なにをよ?」
島造 「おめえしらを切るとためにならねえぞ、おい」
辰  「なんで俺がしらを切るんだい」
島造 「まあいいや。へっ・・・でもな、世間の口はうるせえなあ。捨吉とお杉とがどうだとかこうだとか」

○第六情報 「お杉のおかよへの並ならない嫉妬心」
情報提供者・・・六兵衛、島造、お杉、おかよ、嘉平、あさ

おかよの悲鳴が聞こえる。
島造 「おかよだ。喧嘩かな?」
島造、隣の家を除く。
六兵衛「(顔を出し)島造、来てくれ。お杉がおかよを・・・大変だ」
島造が宿を飛び出すと、隣家からおかよが飛び出してくる。
それを追いかけるお杉。お杉、おかよにつかみかかる。
島造 「おい。どうしたってんだい。やめねえか、おい!」
島造、お杉を制止するが、お杉その手を振り払っておかよを追いか
ける。
島造、やっとのことでお杉を取り押さえる。お杉、おかよに唾をは
きかける。
嘉平 「(その様子を見て)やれやれ」
あさ 「可愛そうにねえ、おかよちゃん」
嘉平 「姉妹(きょうだい)同士でなんてことだ」

第一情報と第二情報はどちらも「お杉が捨吉に惚れている」という情報。
第三情報~第六情報はすべて「お杉のおかよへの疑い・嫉妬心」に関する情報である。
それを小分けにして、語る人物を変えながら少しずつ発展させている。そしてそれらは他の情報と並行して進行していく。もちろんここでも秘密その一の「説明は遠いところから」というテクニックが使われている。いや、というよりは「説明は遠いところから」をより巧みに実践するために登退場が緻密に取り決められているといえるのではないか。
まるで料理の下ごしらえをするかのように水に浸し、切り揃え、あくを抜き、だしをとり、味つけをし、最後は一つ鍋の中で混ぜ合わされる。
秘密その三は「登退場で情報の下ごしらえ」というわけだ。

以上がどん底における「状況設定」の中に隠された具体的テクニックだ。
上手い台詞とは「言い回しの上手さ」というレベルの話ではない。あくまで「観客にどの情報をどの順番でどの程度提示するのか」という念密な計算の上に「これしか言いようがない」という言葉を見つけ出したときに「上手い台詞」にいきつけるのである。「プロットに台詞を書きこむべきではない」というHOW TO本によく言われる決まりの秘密はここにある。

今回は第一幕のみに焦点を置いてみたが、本作の第二幕は、「仏の慈悲も金次第♪」という滑稽な歌と踊りから始まり観客の意表をつくところからスタートする。そしてそれは衝撃のラストへの重要な伏線にもなっている。「状況設定」の中に緻密なテクニックがあったように、劇全体にも大きなテクニックが隠されている。人間の人生を二時間に凝縮させるということは生半可な仕事ではない。