アシテジ世界大会観劇日誌9 2017/05/26 「敵わないなあ、と思った事」

ちょっとマイナスな事を書きます。この大会期間中に「こりゃ日本人はかなわないなあ」と思った事についてです。

○ハーモニー
音の厚みがまるで違います。「あれが倍音だ。」と、一緒に参加している日本人の方が教えてくれました。観劇日誌3でも書いたのですが、こちらの方は、誰かが歌い出すとすぐにハモります。だれか一人の歌をみんなが聞いている、という状況に遭遇しませんでした。歌=ハーモニーなんでしょうか? 歌は聴くものではなく参加するものという感じ。じゃあ、日本人にとっての歌ってなんでしょう。

○演説→台詞
反対に、一人の話をみんながじっと聞く「演説文化」には、沢山遭遇しました。アシテジ世界会議のプレゼンテーションはもちろん。小さな所では、会場係のアナウンスなどにも「演説文化」を感じました。なんてことはない、「みなさんは、これから行われるWSとディスカッションと好きな方を選べますよ」というだけの説明なのですが、洒落っ気と抑揚を効かせて盛り上げます。「あ、違うな。」と思ったのは聞いている人の態度で、じっと聞いているのは「おとなしく聞いている」のではなく、「自分を楽しませてくれるかワクワクしながら待っている状態」なんです。そして、自分の期待に添う説明だったら拍手・歓声。大いに盛りあげます。
これが狩猟・放牧とリーダーを育成する事で文明を切り開いてきた人々のやり方かあ、とため息が出ました。同時に「俺ってやっぱり農耕民族の末裔なんだな。」との思いが・・・
「演説」という言葉は、明治初期に西洋文化を輸入する中で福沢諭吉が作った造語らしいのですが、文明開化から150年経った今でも結局僕たちは、演説文化ではなく根回し文化ですもんね。あ! だから国会中継がつまんないのか! 会議室以外の場所で大事な事を決めてんだから。じゃあどうせなら根回しの現場を中継をしてもらって・・・という冗談はさておき、僕たち演劇人に問題なのは、このことが「台詞術」に関係してくるという事です。というのも、現代演劇では台詞は基本的に、「対話(ダイアローグ)」として書かれているからです。
こちらの言い分と相手の言い分がぶつかる瞬間、そこにドラマが生まれる。
一概にくくれる事ではありませんが、多くの現代演劇はこの構造を取っています。昨日書いた「観劇日誌8」の空気の変わり目も基本的には、この瞬間の事です。
台詞と台詞のぶつかりは、演説と演説のぶつかり、つまり主張と主張のぶつかり。
「AnimalFarm」のスノーボールとナポレオンの演説の応酬は、言葉が分からなくてもドキドキさせられました。あのレベルの台詞術は、演説文化なくして到達できない。劇作家も。役者も。演出家も。
じゃあ、ぼくたち農耕民族の台詞術ってどこにあるんでしょう。
他にもダンス。リズム感。沢山「こりゃかなわないなあ」と思うことがありました。そのたびに「日本人(アジア人)の強みはなんだ?」と考えさせられます。
アシテジ世界大会2020がTokyoに決定して、いやがおうにも「世界的普遍性」を意識しないわけにはいきません。その「普遍性」を英語orノンバーバルという潮流のみで捉えるのではなく、農耕民族である日本人、いやもう少し広く東アジア人という歴史や枠組みの中から発見して、世界に新しい価値観を提案できないかなあと考えると・・・やばい! 自信なし。

今日観た芝居
「Us/Them(ベルギー)」50分。英語。10歳以上。
「Cloud Catcher(南アフリカ)」50分。英語。7歳~9歳。
「AHA!(南アフリカ)」45分。ノンバーバル。2歳~7歳。
※写真は夜みんなでクラウンYAMAさんの部屋の食事会にお邪魔した時のもの。太田昭さんが牛と羊を豪快に焼いてくれました。


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