ー演劇鑑賞教室の今を考えるー
本レポートは、児童青少年演劇雑誌「げき」21号に掲載されたものです。
(2019年8月10日発行)
はじめに
演劇は食事に似ている。
ヒトがサルやチンパンジーなどと大きく違う点は、「性行為を隠し、食を共にすること」と言われている。「食物」という力関係によって最も差が出る対象を敢えて公開し共有する(食卓を囲む)ことで、争いの種を反対にコミュニケーションの場に変化させ、集団としての共感力を育み種としての発展を遂げた。この点から見れば、人間における食事の本質は「共食」にあり、食事について語る時に「何を食べたか」は、もちろん大切だが「誰と食べたか」が、もっと大切であることに気がつく。では演劇はどうか。演劇こそ共感の営みなのだから「誰と観たか」が重要であることは一目瞭然である。これは言葉を見ても分かる事だ。演劇の事を英語で「Theatre」というが、この語源はギリシャ語の「Theatron(テアトロン)」で、これは客席を指す言葉だ。日本語の「芝居」も「芝に座って観る」つまり客席の事を指している。洋の東西を問わず、昔の人は演劇の本質を客席においた。しかし、現代の演劇においてはどうだろう? 「今年の一本」と聞かれた時、作品の内容をあげる人はあっても一緒に観た人の反応を含めて語る人は少ないのではないか。時代は「誰と観た」ことより「何を観た」ことを優先し評価している。おそらくそちらの方が市場経済と相性が良いのだろう。本来演劇はコミュニティが主催する行事に近いものであったはずだが、今ではチケットを購入した人だけが集まる娯楽となった。劇場で出会う人のほとんどは一期一会の他人であるが、これは本来不自然なことなのではないか。
演劇鑑賞教室がなぜ今子どもたちにとって必要なのかという理由はここにある。子どもたちは、定期的に、気心の知れた友だちと、リラックスできる体育館で一緒に劇を観る権利があるのだ。それは劇を通して子どもたち同士がつながりあうために必要な営みだ。子どもたちは観劇中、友だちと何度も顔を見合わせる。笑い合う時、びっくりした時、隣の子と顔を合わせて感情を共有する。大切なのは、これが誰に教えられることなく自然に出来る、ということである。習わずに出来るということは、その行為が人間の進化の古い段階に備わった機能である事を意味する。
教育には二つの側面がある。一つは知らない事を学び学習する事、もう一つは元々持っている力を使い育む事。芸術は後者に属する。演劇鑑賞教室はその最たるものだ。劇場に行く時間とお金がないから学校に演劇を呼ぶのではない。体育館で観ることが子どもたちにとって最も豊かな体験になり得るから学校に演劇を呼ぶのである。しかしその演劇鑑賞教室が今かつてないピンチを迎えている。打開策はあるのか、これから示すのは演劇鑑賞教室の新作を作るために劇団仲間の制作者と共に調べ、考えたことの抜粋である。
データから考える
※データ内の学校は全て小学校を指す。
※グラフ1、2以外はデータをに筆者がグラフを作成した。
※同1、2、5、6はのデータが古いのはそれ以降の調査がなかったため。
※同3は、日本劇団協議会に加盟する21団体の情報に限られる。
各データから何を読み取ることができるか、読者の活発な議論を期待したいが、私は以下の二点に注目した。
- 学校が費用を負担しない上演形態が増えている。
- 小規模校になるほど上演数が減少する。
1について、芸団協(文化庁委託)の調査では、費用を負担しなかった理由に、「教育委員会が負担(47.4%)」、「公立文化施設が負担(11.4%)」、「ボランティア、アマチュアグループによる公演(10.6%)」などがあげられていたが、演劇鑑賞教室の減少に直接的な影響を与えているのは、おそらく文化庁による「文化芸術による子どもの育成事業」と劇団四季の「こころの劇場」の存在だろう。無料公演に当選したときだけ観劇し、外れた年度は見送るという学校が増えている問題は、これまでも「演劇鑑賞教室を考える会」などで指摘されてきたことだ。
ちなみに劇団四季の「こころの劇場」とは、各自治体の教育委員会等を通じて学校単位で実施される招待公演のことで、「2019年度は全国180都市で444回公演、総計56万人の子供たちが観劇する予定」と同劇団のHPで紹介されている。これに付け加えておかなくてはならないのは、招待されるのは基本的に6年生ということである。単純に総計の56万人を444回の公演回数で割ると、一公演の観客数は1260人。これを6年生だけで観劇するということは、数校分まとめて招待されるということか。では、6年生が招待された各学校は、その年、わざわざ演劇鑑賞教室を実施するだろうか。もし、すべての学校が実施を見送った場合、単純計算でいうと56万人×6=3,360,000人の鑑賞機会が失われる。これはなんと、2016年の日本全国の児童数の約半数である。もちろんそんなことはないだろうが、文化庁の事業や四季のこころの劇場に当選した学校におけるその後の演劇鑑賞教室の実施率を把握しておくことは、演劇鑑賞教室の未来を考える上で必要なデータではないか。今後の調査を期待したい。
2は、創造団体が演劇鑑賞教室の公演料を「児童一人当たりの単価×児童数」と設定してきたことが大きく関係しているに違いない。この計算方法では、小規模校を上演の対象外にせざるを得なくなる。自治体によっては、教育委員会が間に入ることで、児童数に関係なく地域全校を回れるように工夫しているところもあるが、それは全国のスタンダードではない。先述の文化庁事業などもあるが、児童数に対して不釣り合いなほど大型作品を送り込んでいる場合もあり、子どもたちの豊かな観劇体験について真剣に考えるならこれは問題だ。演劇において大は小を兼ねない。舞台と観客の深いつながりは、両者の間に調和が取れてこそ成り立つものだからだ。逆も然り。作品規模を超えた観客の動員は、どこかに無理を生む。その無理を負担するのは俳優やスタッフではない。そんな中でも楽しもうとする子どもたちである。
少子化が演劇鑑賞教室に「拡大・成長から成熟へ」舵を切ることを迫っている。その要はおそらく小規模校公演だ。どんな料金プランを提案できるか、作品を生み出せるか、若い世代の創造力が試されている。
先生に聞く
演劇鑑賞教室は、先生の協力なくしては実現しない。しかし、創造団体が現場の先生からゆっくり話を伺える機会は少ない。これには、児童・青少年演劇協会の機関紙「児童青少年演劇」の特集『「演劇鑑賞教室」を考える〜学校(先生)に聞く』(全50人2013〜2018年)が貴重な資料になる。ここではその中から印象に残った言葉を紹介する。
実施にあたって
- 音楽鑑賞と隔年で実施
- 演教は国語科の授業数に配当
- 学校行事の時間に割り当てている
- 実際に観て決めることは難しい
- DMや児演協のパンフレットで判断
- どこでどんな演劇・催しがやっているか知る機会がない
- 児童一人850円。自治体の補助はなし
- 予算はPTAが支出
- 公演にかかる費用は村が半額補助
- 六年生は四季の「こころの劇場」
- 文化は「タダで当たり前」という考えが広がっている
- 文化行事として年3回行っている(私立)
- 作品選定は、企画委員(私立)
- 学校訪問もあるが、時期がずれている時が多い
- 児童文化の先生に聞く
- 鑑賞教室専門のコーディネーターがいる(長野県)
- 毎年区の文化部から劇評などの載った一覧表が出る(江戸川区)
- 言語能力向上拠点校など、研究指定校の存在 懸念
- 一年生から六年生まで理解し、楽しめる作品選びは難しい
- 学校長が教科にない行事はやらないという方針となったらなくなる
- 生徒や先生から「面白かった」と言われてホッとする
ねらい
- 学校は集団を育てる場。子どもたちがお互いに学び合うことが大切
- 芸術文化を大切にできる社会は心豊かで優しい社会
- 劇に触れるきっかけ
- バーチャルなものが多くなっている今こそ、生の体験が必要
期待
- 心に残る作品
- 観終わった後に考えさせてくれる作品
- セリフが残る作品
- 脚本がしっかりしていてメッセージ性のあるもの
- プロの表現を真近で見られる。
- 子どもが元気になるもの
- みんなで非日常の世界を楽しめるようなもの
効果
- 心が育つ
- セリフやしぐさの真似が起きる
- 自然に考える力が育まれる
- 一人一人受け止め方が違う。みんなで同じものを観て、感じたり考えたりする体験ができる
- 学校で全学年が一緒に観るということは、同じ舞台を、空間を共有することで感想も感動も同じではないことを知り、お互いの違いを理解し合える場になる(四季のこころの劇場とは違う魅力)
- 友だちや先生との共通の話題になる
- 保護者にも見る機会を与えられるという点で地域貢献にも
- 移動の時間がないので、劇を見た後の感情をそのまま教室に持ち帰ることができる
アフター
- 感想文
- 学芸会の参考に
- 見せっぱなしで終わりたくないが、時間に追われてなおざりになりやすい
+アルファで欲しい!
- 発声や朗読などのWSやバックステージツアーなどの体験的な活動
- 劇の後で語り合えたらいい
- 幼稚園や保育園を巻き込んでで幼少連携の一つに
- 地域行事にできたら
印象的な一言
- 残念だが、芸術文化というのはなくても人は生きていける
- 若い先生方に演劇の楽しさや、見ることの大切さがわかるような説得力のある演劇を作って欲しい
- 演劇鑑賞教室の教育的な意味を先生方に理解してもらうことが必要
- 一回なくしてしまった行事はなかなか復活しにくい
- 一流のものを一流の会場で、という考えから会館を借りて実施する
- 低学年・高学年むきに分けてもらう場合もあります
- 私は文学的にしっかりしたものであることを条件にしています
- 本校の児童数は約二百三十名ほどなので、やはり補助金がなければ、演劇鑑賞教室の実施はなかなか難しい
- 私自身演劇鑑賞教室には教育的に大きな意味があると考えています。しかし他の先生方がそこまで思っているかどうかは疑問。教育的な意味を抑えておかないと、やがては消えていく可能性も十分に考えられる
- 子どもにとって劇が必要だと考える教師の心が大切にされていない現状こそが危機なのではないだろうか
- 黙っていたら今の子どもたちは芝居なんか観に行きませんからね
- 外で観ようとすると高いですからね。学校で観ると低価格で、しかも友達と一緒に同じものを見られ、共通の話題にもなりますから良いことづくめです。
- 「演劇鑑賞教室は時代に合わないのではないのか」という反対意見もあります
- そもそも「演劇教室って何?」って先生が九割はいますからね
- ディズニーランドで育った子どもたちを魅了するような舞台を作っていくことが必要。お金がかかって大変でしょうが、貧相な舞台にして欲しくない
最後に
この他に我々は、東京都中野区(2018年当時)の大平太悟先生の協力を得て、演劇鑑賞教室を立案、実施するまでのプロセスについてお話を伺う機会を得た。昨今の学校が忙しいことは聞いていたが、年間授業計画は前年のうちに一年分びっしりと計画され教育委員会の採択を得て決定に至る、という手続きを聞いた時、人と人のつながりで続いてきた演劇鑑賞教室と、組織として成熟した学校運営の間に大きな差が生まれていると感じた。しかし大平先生からは「大丈夫。本気でやろうと思えばなんとかなります」という頼もしい言葉も。実際に大平先生は、演劇鑑賞教室のなかった学校を動かし実施したのである。ただ、先生のような方はあくまで少数派だろう。先ほど抜粋したインタビューも、演劇鑑賞教室を大切に思っている先生方のインタビューである。「演劇鑑賞教室って何?」という先生は9割いるらしい。我々が次に知っておかなくてはならないのは、この9割の方の先生の声ではないだろうか。「なぜ授業枠を使って、劇場ではなく学校の体育館で、発達段階の違う子どもたちを集めて演劇を観てもらうのか?」この問いに対して明確な言葉と、それを体現した作品を生み出せなければ、演劇鑑賞教室(体育館演劇)に未来はない。
私も作り手の一人だから、まずこの問いに答えてみた。それが冒頭の言葉である。そして今、劇団仲間と小規模校を対象にした演劇鑑賞教室作品を作っている。自らの問いを体現した作品になるかどうかはこれからの勝負である。その作り手の側から最後に一言申し上げたい。演劇において私は「何を」より「誰と」が重要であると冒頭で述べたが、それは嘘である。「何を」が百万倍重要なことは、疑いの余地もない。
2019年6月16日
西上寛樹(シナリオ工房天邪鬼)